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三菱と岩崎弥太郎の関係とは?1870年創業の経緯から四代の歴史、現在まで徹底解説

三菱と岩崎弥太郎の関係とは?1870年創業の経緯から四代の歴史、現在まで徹底解説

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三菱と岩崎弥太郎の関係とは?1870年創業の経緯から四代の歴史、現在まで徹底解説

三菱と岩崎弥太郎の関係は、1870(明治3)年に土佐藩の海運事業を引き継いだことから始まる。岩崎弥太郎は、九十九商会を出発点として三川商会、三菱商会、郵便汽船三菱会社へと事業を発展させ、日本の近代海運業を代表する実業家となった人物だ。三菱の創業者であり、後に日本を代表する企業集団へ成長する三菱の基礎を築いた。

ただし、現在の三菱グループが弥太郎個人によって直接経営されているわけではない。岩崎家四代の経営を経て、1946年の財閥解体によって三菱本社は解散し、各企業が独立した。その後、歴史的なつながりや経営理念を共有する企業グループとして再発展している。

📌 この記事の重要ポイントまとめ

三菱岩崎弥太郎
【画像】三菱 岩崎 弥太郎 関連ショット

- 三菱の創業は1870年: 岩崎弥太郎が土佐藩の海運事業を引き継いだ九十九商会が起源。
- 海運業から巨大企業集団へ: 三川商会、三菱商会、郵便汽船三菱会社へと発展し、鉱山・造船・金融などにも進出した。
- 岩崎家四代が発展を担った: 弥太郎、彌之助、久彌、小彌太が三菱の基盤を築いた。
- スリーダイヤには家紋の由来がある: 岩崎家の三階菱と土佐山内家の三ツ柏が原型とされる。
- 1946年に三菱本社が解散: 現在は各社が独立経営を行う三菱グループとして存続している。

【創業の真相】三菱と岩崎弥太郎の関係とは?

三菱岩崎弥太郎
【画像】三菱 岩崎 弥太郎 関連ショット

三菱の歴史を理解するには、創業者・岩崎弥太郎と土佐藩の関係を押さえる必要がある。

岩崎弥太郎は1835(天保5)年1月9日、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市周辺)に生まれた。岩崎家はもともと武士の家柄だったが、経済的に困窮し、地下浪人の身分にまで没落していた。

若いころから学問に励み、24歳で土佐藩に取り立てられる。その後、藩の開成館長崎商会で貿易に携わり、32歳のころには主任として欧米の商人との輸出入交渉を担当した。

この経験が、後の三菱創業につながっていく。

土佐藩の海運事業を引き継いだ理由

三菱岩崎弥太郎
【画像】三菱 岩崎 弥太郎 関連ショット

幕末から明治維新にかけて、日本の政治と経済は大きく変わった。

土佐藩では、藩の経済活動や軍事活動を支えるために海運事業を展開していた。弥太郎は長崎で樟脳や鰹節などの土佐の特産品を販売し、その資金で軍艦や武器を購入する貿易実務にも携わっていた。

ところが、明治政府による廃藩置県の方針によって、従来の藩営事業は存続が難しくなる。

そこで動いたのが、土佐藩の有力者である後藤象二郎や板垣退助らだった。

1870(明治3)年、彼らは藩の海運事業を引き継ぐため、私商社として九十九商会を設立。事業内容を熟知していた岩崎弥太郎に経営と監督を任せた。

九十九商会は土佐藩の船舶を基盤とする事業であり、三菱が何もないところから突然生まれたわけではない。

三菱の創業には、土佐藩の政治的な後押し、既存の船舶や航路、弥太郎の貿易経験という三つの要素があった。

1871(明治4)年に廃藩置県が実施されると、弥太郎は九十九商会の経営を引き受け、民間企業としての経営基盤を固めていった。

【創業年表】九十九商会から三菱商会、郵便汽船三菱会社への発展

三菱の歴史では、1870年と1873年という二つの年が重要になる。

1870年は事業の起源となる九十九商会の設立年であり、1873年は「三菱商会」という名称が誕生した年だ。

この二つを混同すると、三菱の創業経緯を正確に理解できなくなる。

三菱創業から海運業の拡大までの年表

年代出来事・関係者三菱との関係
1835年岩崎弥太郎誕生土佐国に生まれる
1860年代土佐藩の貿易事業に従事長崎・大阪で貿易と海運を経験
1870年九十九商会設立土佐藩の海運事業を継承
1871年廃藩置県九十九商会が民営化
1872年三川商会へ改称海運事業を継続・拡大
1873年三菱商会へ改称岩崎弥太郎が社主に就任
1874年三菱蒸汽船会社へ改称東京へ本拠を移し、台湾出兵の輸送を担当
1875年郵便汽船三菱会社へ改称上海航路を開設し、国内外の海運競争を展開
1877年西南戦争政府軍の輸送を担当
1885年弥太郎死去・日本郵船設立彌之助が後を継ぎ、海運事業は共同運輸との合併へ
1893年三菱合資会社設立岩崎久彌が第三代社長に就任
1916年岩崎小彌太が第四代社長に就任事業の株式会社化と企業集団の発展を推進
1946年三菱本社解散財閥解体を経て各社が独立

九十九商会から三川商会へ

1872(明治5)年、九十九商会は三川商会へと名称を変更した。

大阪と土佐を結ぶ航路などを基盤に、海上輸送事業を展開する。

弥太郎は単に船を運航するだけではなく、輸送需要を見極め、船舶の運用や貿易を組み合わせた経営を進めていった。

1873年、三菱商会が誕生

1873(明治6)年3月、三川商会は三菱商会へと改称された。

この時期に弥太郎は名実ともに三菱の経営者となった。

三菱という名称は、創業時に船旗号として使われた三角菱の意匠と結びついている。弥太郎が米国留学中の弟・岩崎彌之助に送った手紙にも、三菱商会への改称を知らせる記述が残されている。

1874~1875年、郵便汽船三菱会社へ

1874(明治7)年、三菱商会は本拠を大阪から東京に移し、三菱蒸汽船会社へと改称した。

同年の台湾出兵では政府の軍事輸送を担当。翌1875年には上海定期航路を開設した。

さらに、政府の保護下にあった日本国郵便蒸気船会社との競争を経て、同社の船舶や施設などを引き継ぎ、1875年9月に郵便汽船三菱会社へと改称した。

この過程は、アジア歴史資料センター(JACAR)の「三菱汽船会社/郵便汽船三菱会社」の解説にも記録されている。

【海運業の功績】岩崎弥太郎はなぜ三菱を成長させられたのか?

岩崎弥太郎の功績は、単に海運会社を設立したことではない。

明治初期の日本では、国内の輸送網や海外との交易ルートが十分に整っていなかった。外国の海運会社も日本の航路に進出しており、国内の海運業者にとって厳しい競争環境だった。

弥太郎は、その状況で政府の輸送需要を取り込み、国内外の航路を拡大した。

台湾出兵と西南戦争での輸送実績

1874年の台湾出兵では、三菱が政府の軍事輸送を担当した。

1877(明治10)年の西南戦争でも政府軍の輸送に大きく貢献している。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」でも、弥太郎が台湾出兵と西南戦争の軍事輸送を担当したことが紹介されている。

こうした輸送業務は、三菱の船舶運用能力を高めるとともに、政府との関係を深める契機となった。

外国海運会社との競争にも挑戦

弥太郎が目指したのは、日本の海運業を外国企業に依存しない産業へ育てることだった。

1875年に開設した上海航路では、アメリカの太平洋郵船会社やイギリスのP&O汽船会社などと競争した。

一方、三菱の成長は政府の支援と切り離せない。

日本国郵便蒸気船会社の解散後には、所有船舶15隻の無償貸し下げを政府から受けている。西南戦争時にも政府からの借用金を活用して汽船を購入した。

つまり、弥太郎の成功は経営手腕だけで説明できない。政府の近代化政策、軍事輸送の需要、海運インフラの整備が重なった結果でもあった。

共同運輸との競争と日本郵船の誕生

三菱の海運事業が拡大すると、運賃や競争のあり方をめぐる批判も生まれた。

政府は三菱に対抗するため、1882年に共同運輸会社を設立する。

両社の競争は激化し、経営上の負担も大きくなった。

最終的に1885年9月、両社の合併によって日本郵船会社が設立される。

ただし、弥太郎はその約7か月前の1885年2月7日に死去している。海運事業の再編を最後まで自ら見届けたわけではない。

この経緯は、三菱の創業期が順風満帆だったわけではなく、政府との関係や競争政策にも大きく左右されていたことを示している。

【岩崎家四代の歴史】彌之助・久彌・小彌太は何をした人物?

三菱の成長を弥太郎一人の功績として捉えるのは正確ではない。

弥太郎の死後、弟の岩崎彌之助、長男の岩崎久彌、彌之助の長男である岩崎小彌太が経営を引き継いだ。

この四人が三菱の歴史を形づくった。

初代・岩崎弥太郎(1835~1885年)

三菱の創業者。

土佐藩の貿易や海運事業に携わった経験を生かし、1870年に九十九商会の経営を担った。

海運業を中心に事業を拡大し、鉱山、炭鉱、造船、金融などにも進出した。

1885年、50歳で死去。三菱の経営は弟の彌之助へ引き継がれた。

二代目・岩崎彌之助(1851~1908年)

弥太郎の16歳年下の弟。

1885年に兄の後を継いで三菱の第二代社長に就任した。

彌之助の経営上の大きな転換は、海運業から陸上産業への事業の軸足の移動である。

1885年には海運事業が日本郵船へ移る流れとなり、彌之助は鉱山、炭鉱、造船、金融などの事業を発展させた。

また、1890年には丸の内や神田三崎町の官有地を取得。後に日本を代表するビジネス街となる丸の内の発展にも関わった。

三代目・岩崎久彌(1865~1955年)

弥太郎の長男。

1893年に設立された三菱合資会社で第三代社長となり、1916年まで三菱を率いた。

米国ペンシルヴァニア大学への留学経験を持ち、専門家を登用する経営や事業ごとの独立採算制を推進した。

その結果、三菱は鉱業、造船、金融、商業など多様な産業を抱える企業集団へと成長していった。

社長退任後は農牧事業に力を注ぎ、小岩井農場などに関わった。1924年には清澄庭園を東京市に寄贈し、東洋文庫の設立にも携わっている。

四代目・岩崎小彌太(1879~1945年)

彌之助の長男で、弥太郎の甥にあたる人物。

1916年に三菱合資会社の第四代社長へ就任した。

小彌太の時代には、三菱の各事業部門を株式会社として独立させる組織改革が進んだ。

造船部門は三菱造船、営業部門は三菱商事など、それぞれの事業が専門性を持つ企業へと発展していく。

また、経営理念として知られる三綱領の形成にも関わった。

三綱領は次の三つで構成される。

- 所期奉公:社会への貢献を目指す。
- 処事光明:公明正大に行動する。
- 立業貿易:グローバルな視野で事業を行う。

小彌太は1945年12月2日に死去。戦後の財閥解体をめぐる時期に三菱を率いた最後の岩崎家出身の社長となった。

【スリーダイヤの由来】岩崎家の家紋と土佐藩の関係

三菱の象徴として世界的に知られるスリーダイヤには、岩崎家と土佐藩主・山内家の歴史が関係している。

三菱オフィシャルサイトによると、創業時の九十九商会が船旗号として採用した三角菱が現在のマークの原型とされている。

その意匠は、次の二つの家紋に由来すると考えられている。

- 岩崎家の家紋:三階菱
- 土佐山内家の家紋:三ツ柏

この二つの家紋に由来する三角菱が、三菱という社名の成立にもつながった。

ただし、三菱公式の説明でも、マークの正確な由来については完全に明らかになっているわけではないとされる。

現在の形のスリーダイヤは1910年ごろに成立したとされ、1914年6月には三菱商標として登録された。

よくある誤解:三菱のマークは岩崎家だけの家紋なのか?

これは正確ではない。

岩崎家の三階菱だけでなく、土佐藩主だった山内家の三ツ柏も由来とされている。

つまり、スリーダイヤは岩崎家の個人的な象徴にとどまらず、土佐藩の海運事業を引き継いだ創業の歴史を反映するシンボルでもある。

【1946年の財閥解体】岩崎家から現在の三菱グループへ

三菱の歴史を語るうえで欠かせないのが、第二次世界大戦後の財閥解体だ。

明治時代から昭和初期にかけて、三菱は岩崎家を中心とする企業集団として発展していた。しかし、戦後の経済改革によって従来の経営体制は大きく変わることになる。

GHQによる財閥解体と三菱本社の解散

1945年の終戦後、GHQは日本の財閥解体を進めた。

1945年10月には三菱本社に対して自発的解体が求められたが、第四代社長の岩崎小彌太はその要求に反対した。

その後、小彌太は同年12月2日に死去。

そして1946(昭和21)年9月、三菱本社は解散し、清算に入った。

この結果、三菱各社はそれぞれ独立した企業として再出発することになった。

三菱オフィシャルサイトの沿革でも、この1946年を三菱の組織形態が大きく転換した年として位置づけている。

財閥解体後、三菱は消滅したのか?

答えは「消滅していない」。

解体されたのは、岩崎家を中心とする従来の本社組織と財閥としての支配構造である。

個々の事業会社まで一斉に消滅したわけではない。

1946年以降も各企業は独立して事業を続けた。

1952年にはサンフランシスコ平和条約の発効に伴い、財閥の商号・商標使用を制限していた政令が廃止され、各社は次々と三菱の名称を復活させた。

1954年には三菱金曜会が発足し、企業間の交流や連携も進んでいった。

なお、三菱重工業が1950年に西日本・中日本・東日本の3社に分割され、1964年に再統合された出来事は、1946年の三菱本社解散とは別の企業再編である。

2026年現在の三菱グループとのつながり

2026年現在の三菱グループは、岩崎家が一つの本社から直接支配する企業集団ではない。

三菱グループの公式説明によると、各社はそれぞれ独自に経営を行っており、共通の方針や意思決定機関を持っていない。

一方で、三菱の歴史や三綱領などの理念を共有している。

現在の三菱グループには、次のような企業がある。

- 三菱商事:総合商社として国内外の幅広い事業に携わる。
- 三菱重工業:エネルギー、航空・宇宙、防衛、社会インフラなどを手掛ける。
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ:銀行を中心とする金融事業を展開する。
- 三菱電機:電機・電子機器、産業システム、社会インフラなどを手掛ける。
- 三菱地所:不動産開発や都市開発を担う。

これらの企業はそれぞれ異なる経営体制を持つ。

したがって、現在の三菱グループと岩崎弥太郎の関係は、直接的な同族経営の継続ではなく、1870年に始まった事業の歴史的な系譜と企業間のつながりにある。

【三菱と岩崎弥太郎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:三菱の創業は1870年と1873年のどちらですか?

A1:三菱の起源は1870年です。この年に土佐藩の海運事業を引き継いだ九十九商会が設立されました。1873年は三川商会から三菱商会へ改称した年です。

Q2:岩崎弥太郎は現在の三菱グループの創業者ですか?

A2:はい。岩崎弥太郎は1870年に始まる三菱の創業者です。ただし、現在の三菱グループは1946年の財閥解体後に各社が独立して形成された企業グループであり、創業当時と同じ経営組織ではありません。

Q3:三菱のスリーダイヤは岩崎家の家紋ですか?

A3:岩崎家の家紋である三階菱が由来の一つとされています。もう一つの由来とされるのが、土佐藩主・山内家の三ツ柏です。二つの家紋に由来する三角菱が現在のマークの原型と考えられています。

Q4:岩崎弥太郎の後を継いだのは誰ですか?

A4:弟の岩崎彌之助です。その後、弥太郎の長男・岩崎久彌、彌之助の長男・岩崎小彌太が経営を引き継ぎました。

まとめ:岩崎弥太郎が築いた三菱の歴史は現在も続いている

岩崎弥太郎と三菱の関係を理解するうえで、最も重要なのは1870年の九十九商会設立である。

土佐藩の海運事業を引き継いだ弥太郎は、三川商会、三菱商会、郵便汽船三菱会社へと事業を発展させた。政府の輸送需要や海外航路への進出を背景に、三菱は日本の近代海運業を代表する存在へと成長した。

その後、彌之助が鉱山・造船・金融などに事業を広げ、久彌が近代的な経営体制を整え、小彌太が事業会社の独立と企業集団の形成を推進した。

しかし、1946年の財閥解体によって岩崎家を中心とする三菱本社は解散した。

現在の三菱グループは、各社が独立した経営を行いながら、共通の歴史や理念を受け継ぐ企業集団となっている。

三菱の歴史を正確に理解するための三つの判断基準は、次のとおりだ。

1. 創業年は1870年、三菱商会への改称は1873年と区別する。
2. 岩崎家四代の経営と、1946年以降の独立企業によるグループ形成を区別する。
3. 現在の三菱グループを、岩崎家が直接支配する一つの会社と混同しない。

岩崎弥太郎が始めたのは、一つの海運事業だった。しかし、その事業は時代の変化に対応しながら多角化し、四代の経営者によって巨大な企業集団へと発展した。

1870年の創業から150年以上が経過した2026年現在も、三菱の名前とスリーダイヤは、日本の産業史を象徴する存在として受け継がれている。

主な参照資料

- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」
- 三菱オフィシャルサイト「岩崎彌太郎年表」「三菱グループの基礎知識」「沿革」
- 三菱広報委員会「会員会社年表」
- アジア歴史資料センター(JACAR)「三菱汽船会社/郵便汽船三菱会社」
- 三菱重工業「沿革」

(出典: 三菱 岩崎 弥太郎(Yahoo!ニュース))

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木村 あおい (Aoi Kimura)

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